「他人に心を開くってどうするんだっけ?」
超少数派の他人に対して心を開けない人に贈ります。
他人に心を開くってどういうこと?
- 他人に対して思ってることを伝える
- 乱暴な言葉を投げかける
- タメ口で話しかける
- 辛い時や困ってる時に甘えてみる
- 弱音を吐く
世間一般的な他人に対して心が開いてる状態を箇条書きしました。
けど、これらのことをすることしたら心を開いてることになるんでしょうか?
箇条書き通りのことをやって他人に心を開けたと満足する人がいる一方で、心が閉ざされたまま微動だに動いた実感すらない人もいるはずです。っていうか私です。
後者の人にとって心を開いてる風に見えるポージングに過ぎません。
酷くコミュ障という訳でもなく(むしろ器用なほう)、他人の気持ちがわからない(むしろ結構共感するほう)という訳でないんですが、他人に対して心が開けないです。
他人に本心を言うこと
心を開いて欲しいと頼まれてもできません。
私の意思でなく開いたり閉じたりできないんです。
しかし心を開いた風の言動や行動を他人にすると「心を開いてくれた!嬉しい!」って大変喜ばれます。
サービス精神で心開いてるような演技をするようになります。
我慢しているとか嘘ついてるとか警戒しているとかではないんですが、本心をさらけ出すのと、心を開くのって違うなって違うんだなーって自分を通して気付きました。
実際に私は本心をストレートに伝えることができているし、ムカついたらムカついたと言うし、馴れ馴れしい態度を取ることもあります。
ある意味誰よりも本音で語り本心をさらけ出して生きていけてると思いますが、これらのことをして心開いたことになるんでしょうか?
私は違和感を覚えます。
感情を言うことや、馴れ馴れしくすること、甘えることで、心で他人に心開いたことになるのは違うと思うんです。
心の開き方が分からない私でも、自分の心が開いてるか閉じているかくらいは分かります。
TVの毒舌芸人が他人に対して心を開いてる精神状態でないですよね。
だから心開いた風のポージングをして深い関係になったと喜ぶ人に対しては一生心が通うことはないだろうなーって思います。
そして薄っぺらさに軽く絶望します。
別に良いけど、人種の違いを痛感する瞬間なのです。
他人に心を開けないことを気にしない
先ほど言った通り私自身が他人に心を開けません。本音をぶちまけたくらいで心は開かないのです。
一向に心を開けないですが、特別不幸だとも思いませんし、一生誰かと分かち合わなくても別にいいやって割り切れます。
こう書くとガチガチの人間不信で他人の暖かみが必要そうに思えますが、優しさの問題ではないのです。唯一心を開いてる瞬間は、壮大な景色を眺めていたり、良い映画に触れたり、登場人物に共感したりする瞬間ですね。
他人の生き様を見つめて自分と重ねている時は一方的ですが心を開いてる実感があります。片思いのようです。
その瞬間はとても嬉しくなります。瑞々しいです。心を開く瞬間って爽やかで風が吹いたように心地良いですよね。
他人に対して心を開けない人へ
何故こんなことを記事にしたかというと、超少数派である「他人に対して心を開けない人」に対してへのメッセージです。
他人に対して心を開けないことは私は不幸だとは思いません。自分を心を閉ざした冷たい人間だと悲観して孤独感を味わうことないです。心を開くのは他人との関りが全てではありません。
心を開くというのは本音をぶちまけることではなく、心の在り方だと考えています。
上っ面の心を開いてる風のポージングをやっても満足するはずがないんです。逆に言えばウソで固めても心が開く瞬間っていうのがあるってことです。
人と関わることよりも犬と戯れていたり、人形と遊んでいたり、アニメを観ている時の方がよっぽど心を開いている人もいるでしょう。
本当に大事にするのは自分の心を開いた瞬間はどういう時なのかを知っていることだと思います。
心の変化
2018年7月2日に書いた記事ですね。
現在は2020年7月30日で心に変化が出たので書きます。
私は相変わらず他人にへの心を開きかたが分からないままだし、本音をしゃべらないし、人に本音トークでぶつけても別に心を開いていない点は変わってないです。
20代は尖がっていて不信感と殺気がものすごい人物でしたが、30代を過ぎると人間的に丸くなれた気がします。
私自身が老いたというのもありますが、本当の意味でのパートナーができたというのがデカいですね。心の余裕を持てるようになり、自分への能力へ自信を持てるようになりました。
あの日の闇はもうないです。
だから、もう大丈夫だと思います。