一流がわからないと何故かわいそうだと思ってしまうのでしょうか。
例えばアイスで言ったら、スーパーカップとハーゲンダッツの違いが、分からないということです。
味なんかわからなくても問題ないのですが私は軽蔑に近い目線を送ってしまいます。
今回こんな気持ちになってしまうのは何故なのか考えてみました。
一流がわからないと可哀想と思う不思議
本人が安物で大満足で幸せなら、それで良いはずなんですが、何故に軽蔑の視線を送ってしまうのでしょうか。おまけに感想が「この人かわいそう」です。
「この人になりたくないわ」まで思ってしまいます。酷い!
これってもはや人間性まで否定してますよね!!
アイスなんて味覚の話だったはずなのに、価値観の否定になってますよ!
一流と二流がわからないからといって人生に何の支障はないはずなんですけどね。
コストをかけずにハッピーになれるって、幸せは身近にあるを体現してると解釈もできます。
しかし何の罪も犯していないのに、白い目で見てしまうのは何故でしょうか。
存在が安っぽい
- ゴミだらけのビーチでリゾート気分で寛いでるアジア人
- 散らかってるのにキレイに片付いてると思ってる人
- オシャレ大好きを公言してるのにインスタが致命的にダサい
例に挙げたのは美的センスの話です。
本人がイケてると思ってるなら、それで良いはずなのに残念に思ってしまいます。
キレイなものと醜いものの区別が付かないって致命的な欠陥のような扱いです。
安物と高級品の違いがわかるようになる
私がかつて、安物と高級品の違いが分からない女でした。
25歳で高級アパレルブランド勤務になってから違いが分かるようになりました。
生地が見るからにテロテロとか、光沢が安っぽいとか、縫製が雑だとか気が付くようになったんですね。
そこで以前の自分はなんて安っぽかったんだと自分を恥じました。
他人が見えていた世界と自分が見えていた世界が違っていたことが分かりました。
この時に自分は恥ずかしいという感覚になったんですが、冷静に考えたら、この羞恥心も中々謎ですよね。
自分が良ければそれで良いはずなのに、安っぽいとわかると恥ずかしくなる心理は一体なんなんでしょう。
前の安いと高いの区別がつかない自分のほうが幸せだと思うけど、戻りたいと思いません。
美的センスが品格になる謎
美しいと醜いものが分からない人のほうが、「キレイ」の水準が低いから楽しそうな気がします。どんなゴミにまみれた世界でも「この世は美しい」とウットリして言えるのって羨ましいと思うべき点かもしれません。
お前の美的感覚はどうなってるんだと軽蔑されますが、ある意味で幸せです。
美的センスに関しては人それぞれで突っ込みづらいので放置にされます。
逆に美しいものと醜いものが分かる人は、醜いものが分かる分、嫌な気持ちになりそうです。本物が分かるけど、世の中に絶望しそうです。
しかしこっちの人のほうが、センスが優れてると言われます。
美的センスって何故に人としての品格と結びついちゃったのでしょうか。
最後に
汚い部屋の人が「この部屋キレイ!(モデルルーム)」「この部屋キレイ(ゴミ落ちてる)」と言うと「お前の中の美って一体なんやねん」と思ってしまいます。
美的センスの問題は自分の中で昇華できずに何年も抱えています。
美的センスや味覚うんぬん言うのは人間だけです。
「本人が幸せなら安っぽくても良いやん!でも自分はああなりたくない!」
という矛盾した気持ちを抱えてしばらく生きていきます。